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佐賀地方裁判所 昭和50年(ワ)86号 判決

原告 鶴田文治

被告 佐賀県 ほか一名

代理人 原口貢 中山章 江崎幸登 ほか一〇名

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  原告

1  被告らは原告に対し、各自九七四万七、〇七六円及びこれに対する訴状送達の翌日(被告佐賀県は昭和五〇年五月一八日、被告井上卓は同月二一日)以降各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言。

二  被告ら

1  本案前の申立て

(一) 本案訴えをいずれも却下する。

(二) 訴訟費用は原告の負担とする。

2  本案に対する申立て

主文同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和四八年七月一一日訴外佐賀県三養基郡上峰村長が結核予防法に基づき実施した、X線の間接撮影による健康診断を受診した。

2  右間接撮影により撮影したX線フイルムは、佐賀県鳥栖保健所長が同保健所の嘱託医で、同県の非常勤職員である被告井上に読影を依頼し、同月一八日被告井上が読影の結果、原告については異常ないものと診断された。

3  ところが原告は、昭和四九年三月に至り、発熱、悪寒、咳等の異常を覚え、同県三養基郡上峰村前牟田所在の医師訴外田中次雄の診察を受けたところ、右肺上野に鶏卵大の陰影のあることが発見され、肺結核と診断されて、直ちに入院し現在まで加療中であるが、回復の見込みは全くない。

4  入院後調査したところ、前記健康診断受診時に撮影された原告のX線フイルム(以下、本件フイルムという。)には、当時既に右肺上野に鶏卵大の明らかな陰影(以下、本件陰影という。)があり、被告井上がこれを見落としたことが判明するに至つた。もし本件フイルムにより本件陰影が発見されていれば、その段階で早期治療が可能であり、当然早期に治療し、社会復帰ができたものと考えられる。しかるに原告は、被告井上の右見落としにより、完全に病状が悪化し、体力も衰えた九ヶ月後に至つて治療を行うことになつたため、将来の治癒時期も明確にならない病状のまま現在に及んでいる。

5  ところで、被告井上が本件フイルムの読影にあたり右陰影を見落としたのは、同被告が短時間に多数のフイルムを連続的に読影したため、フイルムをずらして読影する際のずらし間違い等が原因と考えられるが、被告県についても、被告井上の監督者並びに使用者として、X線フイルムの読影につき複数の医師を従事させるとか、必ず二回読影をさせるよう監督指導する等の適切な措置をすべき義務があるのに、これを怠つた過失がある。

したがつて、被告井上は不法行為者として民法七〇九条により、また被告県は、被告井上がその非常勤職員として職務を行うについて不法行為をなしたものであるから、本件健康診断が公権力の行使にあたるとすれば国家賠償法一条により、そうでないとしても民法七一五条により、各自本件陰影の見落としにより原告に加えた損害を賠償する責任がある。

6  被告の被つた損害は次のとおりである。

原告は、前記健康診断受診時、酒類小売並びに日用雑貨販売業を営み、かつ上峰村村議会議員をしていたものであるところ、当時五八才の働き盛りで、なお一〇年間十分稼働できたものであり、本件による精神的並びに経済的損失は甚大である。

(一) 慰藉料    三〇〇万円

(二) 営業上の損失 三五〇万三五六円

原告の昭和四八年分営業所得七六万九、七二五円から昭和四九年分営業所得三二万八、八七四円を差引いた四四万八五一円が本件による一年間の損失であるので、これに一〇年間のホフマン計数七・九四を乗じた三五〇万三五六円が営業上の損失である。

(三) その他の経済的損失 三二四万六、七二〇円

議員報酬は、昭和五〇年四月当時月額七万六、〇〇〇円であり、これに一二を乗じた九一万二、〇〇〇円が年間の報酬となるところ、原告は少くともさらに一期四年間議員として勤め得たものと考えられるので、そのホフマン係数三・五六を乗じた三二四万六、七二〇円が右損失となる。

7  よつて、原告は被告らに対し、本件陰影の見落としに基づく損害賠償として、各自、右損害の合計額九七四万七、〇七六円及びこれに対する本件訴状送達の翌日以降各完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告らの本案前の主張

1  被告県

(一) 被告井上の本件フイルム読影は、結核予防法四条三項に基づき訴外上峰村長が実施した定期健康診断の一環として行われたものであるが、本件定期健康診断は同村長に対する国の機関委任事務(地方自治法別表第四参照)であり、これが費用支弁団体は結核予防法五二条により訴外上峰村と定められているのであつて、被告県には本訴の被告適格がない。

(二) 仮に訴外佐賀県知事に本件定期健康診断に対する指揮監督上(地方自治法一五〇条参照)の落度があつたとしても、この場合の知事は、国の機関として国の事務を処理したものであるから、国が賠償の責を負うべきであり、被告県がその責を負う根拠はない。したがつて、被告県には本訴の被告適格がなく、本件訴えは不適法として却下されるべきである。

2  被告井上

(一) 仮に被告井上は本件陰影の見落としがあつたとしても、同被告は、被告県の嘱託医としての業務中右見落としをしたものであるから、国家賠償法一条にいう公権力の行使にあたる公務員である。

(二) 仮に被告井上が読影したX線フイルム(以下、フイルムという。)の中に本件フイルムが含まれていたとしても、同被告は当日約二、〇〇〇枚のフイルムの読影を一般健康診断及び相談の合間に行うよう指示されたものであつて、その読影量は普通医師の処理能力として限界線上にあり、また住民検診が住民の健康を前提に行われていることからくる注意力の集中度(前歴が記載してあれば読影に誤りが生じる可能性は少ない。)からみても、右読影に見落としの生じる可能性は十分考えられ、仮に見落としがあつたとしても、その過失の程度は著じるしく軽いものである。

(三) そうすると、被告井上は原告に対し直接責任を負わないので、本件訴えは却下されるべきである。

三  請求原因に対する認否及び被告らの主張

1  被告県

(一) 請求原因1、2の各事実は認める。

(二) 同3は不知。

(三) 同4のうち、本件フイルムに本件陰影があることを認め、その余を争う。

(四) 同5を争い、同6は不知。仮に損害があつたとしても、営業所得については家族の寄与を斟酌すべく、議員報酬についても、選挙はいわゆる水もので、必ずしも当然の蓋然性がない。

(五) 本件について、被告井上に過失があるとはいえない。すなわち昭和四八年七月一八日、被告井上は、原告を含む二、二七八名分のフイルムを読影し、内三五名につき精密検査を要するものと判定したが、本件フイルムについては当時右肺上野の本件陰影を見落としたため、要精密検査者として措置しなかつたものであるところ、間接撮影の確率については八〇パーセント程度を限度とするのが医学界の定説であり、本件のように二、二七八分の一の読影ミスも過失と評価認定することは、被告県に対し不可能を強いるものというべきである。

(六) 仮に前項の主張が認められないとしても、被告井上が昭和四八年七月一八日に読影した本件フイルムと、原告が昭和四九年三月九日訴外田中医院で受診した際のX線(直接)フイルム、及び同月一九日訴外国立療養所東佐賀病院(以下、東佐賀病院という。)でのX線(直接)フイルムとを比較すると、右肺上野の陰影にはなんら変化がなく、同年七月五日同病院でのX線(直接)フイルムで始めて左肺への転移がみられたのであつて、本件の経緯によれば、原告の肺結核の発症時期は本件間接撮影の数ヶ月後であり、しかも、専ら後記原因で症状が発現、悪化したものであるから、被告井上の読影上の見落としと原告の肺結核症の発症、症状悪化等との間には因果関係が存しない。

(七) 仮に前項の主張が認められないとしても、原告の肺結核症の発症、症状悪化、治癒困難については、左のとおり原告の持病である糖尿病、肺化膿症、大量飲酒、早期発見治療への畏怖、嫌忌等が主因として存在し、原被告双方の結果に対する過失ないし寄与の割合は、原告九対被告県一と認定されるべきである。

すなわち、(イ)原告は昭和四四年四月一九日以降肺結核、糖尿病、肺化膿症の治療のため、訴外久留米大学附属病院に入通院してきたものであるところ、糖尿病と肺結核症とでは、食餌療法の面で前者が粗食、後者が栄養食、療養態度の面でも前者が運動、後者が安静を主眼とする等、いわば二律背反の関係にあるため、糖尿病合併は肺結核症の重要な悪化要因、時に死因となり、他面、肺結核症合併は糖尿病のコントロール困難の重大要因となること、医学界の定説であり、現に原告が昭和四九年三月二八日から同年一二月一五日まで東佐賀病院に入院中、肺結核症につき最高水準の治療を受けたにもかかわらず、同年七月五日ころに至つて左肺に転移、悪化し始めていること、(ロ)原告には肺化膿症(クレブシエラ肺炎肝菌、シユードモナス緑膿菌等の総称)があり、これが肺結核症の発症、症状悪化、治療困難の強力な原因であること、(ハ)原告は肺結核、糖尿病、肺化膿症の既往症について十分自覚しながら、肺結核の早期発見治療を畏怖、嫌忌して、専門医の精密な診断検査を忌避し、かえつて大量の酒類を常用し、結果として自ら肺結核症の再発、悪化を招いたといえること、(ニ)前記のとおり、間接撮影フイルム読影の確率は、相当高度の技術、経験を有する医師にとつても、せいぜい八〇パーセント程度であつて、一〇〇パーセントを期待し得ないこと等を総合すれば、被告県の損害額に対する負担割合が一割を超えることはない。

2  被告井上

(一) 請求原因1の事実は不知。

(二) 同2のうち、被告井上が鳥栖保健所長からX線フイルムの読影を依頼されたこと、同被告が同保健所の嘱託医で、被告県の非常勤職員であることは認めるが、その余は否認する。

(三) 同3は不知。

(四) 同4のうち、本件フイルムに本件陰影があることは認めるが、その余は否認する。

(五) 同5は争い、同6は不知。

四  本案前の主張に対する原告の答弁

1  被告県に対し

本件について、被告井上が被告県の非常勤職員として本件フイルムの読影にあたつた以上、県と国または県と上峰村との関係如何にかかわらず、被告県に当事者適格がある。

2  被告井上に対し

本案前の主張を争う。

五  被告らの主張に対する原告の答弁

1  被告県は、間接撮影フイルム読影の確率を八〇パーセント程度であると主張するが、右確率はいわゆる読み過ぎまたは読み足らずを含めてのことであり、本件のように陰影に全く気付かなかつた場合は論外である。八〇パーセントの確率しかないとすれば、読影する医師がその事を念頭において十分時間をかけ、慎重に処するはもちろんのこと、被告県としても、前記請求原因5に摘示したような措置を以て見落としがないようにすべきである。

2  被告県は、原告が肺結核、糖尿病、肺化膿症を有しながら健康管理に十分でなかつたと主張するが、原告は訴外久留米大学医学部附属病院(以下久大病院という。)の診断により肺結核ではないと信じていたものである。仮に、真に肺結核であつたとすれば、被告県においてその監視、治療等行うべき義務があつたのにこれを放置していたもので、かえつてその責任を全うしていないものといわなければならない。

第三証拠 <略>

理由

一  まず、被告らに本訴の当事者適格がない旨の本案前の主張について判断するに、本訴は原告を権利者、被告らを義務者とする、損害賠償を求める給付訴訟であるから、被告らに被告適格があることは明らかであつて、被告らの右主張は理由がない。すなわち、本件定期健康診断が訴外上峰村長への国の機関委任事務で、被告県に本件賠償義務の法的根拠がない旨の同被告の主張、並びに被告井上のフイルム読影が国家賠償法第一条の公権力の行使に該当し、また、その読影ミスも過失とはいえないから、いずれにせよ個人として賠償責任を負わない旨の同被告の主張は、給付訴訟である本訴の場合、いずれも本案の問題に帰するといわざるを得ず、右各主張が認められるからといつて、本件訴訟そのものが不適法となるものではない。

二  次いで本案につき判断するに、原告が、昭和四八年七月一一日その主張のとおり上峰村長実施にかゝる定期健康診断の一環としてX線の間接撮影を受けたこと、右間接撮影により撮影された本件フイルムが同月一八日被告井上によつて読影され、原告の診断結果が異常ないものとされたことは、原告と被告県との間で争いがなく、被告井上が佐賀県鳥栖保健所の嘱託医として同県の非常勤職員であり、同保健所長から前記健康診断のため本件フイルムを含むX線フイルムの読影を依頼されたこと、本件フイルムに原告主張の本件陰影が存在することは、原告と被告ら両名の間で争いがない。

そして、<証拠略>によれば、訴外上峰村長は、結核予防法に基づき鳥栖保健所長の指示をうけて行う、定期健康診断の一環としてのX線間接撮影による集団検診の実施を、昭和四八年度訴外結核予防会佐賀県支部(下以、単に予防会という。)に委託したこと、予防会は、恩賜財団法人として発足した全国的な組織で、佐賀県支部については、各保健所長を地区支部長に委嘱している関係上、鳥栖保健所長もその鳥栖地区支部長を兼ねていること、予防会は、訴外上峰村長の指定した昭和四八年七月一一日同会の検診車で右集団検診の間接撮影を実施し、原告も同日右X線の間接撮影を受診したこと、右間接撮影により撮影された本件フイルムを含む二、〇〇〇枚以上のX線フイルムの読影は、予防会の佐賀県鳥栖地区支部長を兼ねる鳥栖保健所長から同保健所の保健婦を介し被告井上に依頼されたこと、被告井上は右フイルムの読影を同月一八日午前中の一般健康診断及び相談の合間を利用して行つたこと、その際本件フイルムには前記のとおり本件陰影が現われていたにもかかわらずこれを見落として異常なしと診断したこと、被告井上の右見落としは、当日既に巻きとつてあつた前記二、〇〇〇枚以上の連続フイルムを右から左にずらしながら拡大鏡で読影する過程で生じたものであることの各事実を認めることができる。

三  次に、<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

すなわち、原告は、前記健康診断の後昭和四九年三月三日に至り、発熱、悪寒、咳、食欲不振及び強度の全身倦怠等の異常を覚え、訴外田中医師の診断を受けたところ、当初急性気管支炎兼感冒兼胃腸炎の診断であつたが、同月九日X線の直接撮影の結果、右肺上野に鶏卵大の陰影が発見され、検尿の結果尿糖卅もあつて、肺結核兼糖尿病と診断されたこと、さらに原告は、同月一四日訴外福山医師の診断を受けたが、同様に肺結核兼糖尿病と診断され、同医師の紹介により同月二八日訴外東佐賀病院に入院したこと、同病院における診断も肺結核兼糖尿病であり、同病院では結核につきストレプトマイシンやパス等抗結核剤の投与、糖尿病につき食餌療法と内服薬による治療がなされたこと、しかし、その間糖尿病の方はかなり軽快したものの、結核の方は、原告の疾病が一〇種類の抗結核剤すべてに全剤耐性(どの薬も結核菌に効かなくなつていること)の状態にあつたため、なかなか好転しなかつたこと、そして、X線撮影の結果によれば、右肺上野の当初の病巣はその後いくらか良くなつたけれども、同年七月五日には左肺中野、さらに同年一二月二日には右肺下野にそれぞれ陰影が認められるに至り、むしろ全体として悪化傾向にあつたため、同月一六日転医のため同病院を退院したこと、同日原告は、久留米所在の訴外古賀病院に入院し、肺結核、糖尿病、肺性心(肺が悪いことにより心臓に負担がかかるため右心室に生じる疾患)、混合感染症(結核菌以外の雑菌による感染)と診断され、糖尿病につきインシユリン注射、結核につきパス等の抗結核剤の投与等による治療を受けたが、依然発熱、咳等が続いてなかなか好転せず、また、喀痰中に結核菌のほかにクレブシエラ肺炎肝菌、シユードモナス緑膿菌のような雑菌も発見されるに至つたこと、しかし、その後の治療の結果、昭和五二年九月現在ようやく平熱、咳等も少ない等自覚症状が軽減され、始めて排菌も塗抹検査で陰性となり、症状及びX線所見も入院時より大いに改善されて、治癒に向かいつつあるのであるが、その臨床的な治癒の時期は依然明らかでないこと、しかも糖尿病の治療(血糖のコントロール)は将来とも必要であり、前記クレブシエラ、シユードモナス等の雑菌の関係も、撲滅が容易でないため、抗生物質の長期ないし間けつ的投与が必要とされること、以上のように認めることができ、右認定に反する証拠は存しない。

四  原告は、被告井上が本件フイルム読影の際本件陰影を発見していれば、早期治療が可能であり、現在のような症状の悪化もなく社会復帰ができた旨主張し、被告らは、本件定期健康診断の実施が訴外上峰村長への国の機関委任事務であつて、被告県に本件賠償義務の法的根拠がない旨、また、本件フイルムの読影が国国家賠償法上の公権力の行使に当たるので、当該公務員である被告井上個人に賠償責任がない旨、或いは、同被告の本件読影ミスが不法行為における過失とはいえず、仮にそうでないとしても、右読影ミスと原告の肺結核症状の悪化、治癒の困難性との間に因果関係がない旨、それぞれ右原告の主張を抗争する。

しかし、結核予防法に基づき訴外上峰村長の実施した本件定期健康診断が、市町村長に対する国の機関委任事務であることは、地方自治法一四八条三項、別表4、一、(二)により明らかであるけれども、同法一五〇号により、市町村長に対する機関委任事務一般につき都道府県知事が指揮監督を行うほか、結核予防法三条によれば、市町村長の定期健康診断は、都道府県の地方支部機関である各保健所長の指示をうけて行うべきこととされているので、被告県も本件定期健康診断につき一般的な指導監督の権利義務を有するものといわなければならない。

そればかりでなく、前記認定した事実によれば、本件の鳥栖保健所長は、被告県の地方支部機関であるほか、訴外上峰村長からX線フイルムの間接撮影を委託された予防会佐賀県支部の鳥栖地区支部長を兼ねていて、右間接撮影により撮影された本件フイルムを含むX線フイルムの読影を、同保健所の嘱託医として被告県の非常勤職員である被告井上に依頼し、同被告も右立場でこれを承諾し、読影の作業に従事したものであるから、少くとも本件フイルムを含むX線フイルムの読影が、被告井上の被告県非常勤職員としての職務上の行為であつたことは否めないところである。

よつて、以下、公権力の行使に当たる公務員として個人では賠償責任を負わない旨の被告井上の主張をしばらく措き、被告井上の本件陰影の見落としと同被告の過失、及び右見落としと原告の肺結核症状の悪化等との因果関係の有無につき、順次判断するに、まず、右過失の点については、<証拠略>を総合すると、X線の間接撮影による診断の正確性については、従来から一定の限界が指摘されていること、その正確度につき「結核」第四五巻における中村健一ほかの「七〇ミリミラーカメラによる間接写真の診断能力及び医師の読影能力に関する研究」と題する論文では、昭和四三年七月、フイルム読影の仕事に従事中の医師一九二名を対象とするテストで、コマ別読影成績上有所見例の見落とし率が平均二一・八パーセント、読影者別読影成績でも平均見落とし率二一・二パーセントと報告され、「結核研究の進歩」第七号における御園生圭輔の「間接撮影によるX線診断の限界」と題する論文では、予防会職員が行つた各種実験資料をもとに、三五ミリフイルムの有所見例発見率平均七八パーセント、六〇ミリフイルムのそれが八一パーセント等と報告されており、先進諸外国の確率もほぼ同程度とみられること、しかも、実際の集団検診では、有所見フイルムの含まれる率や読影者のおかれる環境に大きな差異があり、一般的に見落とし率が更に上廻るであろうと考えられること、しかし、そのため集団検診の実施が無意義であるとはいえず、右程度の確率にとどまつたとしても、二年三年と検診をくり返すことにより特定個人への見落としはほとんどなくなる筈であること、また、集団検診における患者の発見率は、結核患者数の減少に従つて低下し、非効率化する傾向(新規患者のうち集団検診で発見されるものの割合も低下する)にあり、先進諸外国では、患者の発見率が一万分の五、すなわち〇・〇五パーセント程度を下廻る段階で、その対象集団への検診をやめる例がみられること、我が国でも同様の理由で昭和四九年六月以降小中学生に対する検診を大幅に縮少していること、なお、佐賀県管内の昭和五一年度市町村長施行定期健康診断の受診者一六万二、六九一人に対し、発見された結核患者九四名で、発見率〇・〇五パーセントであつたこと、原告の本件フイルムは六〇ミリフイルムであつて、本件陰影は、本件フイルム一枚だけを対象に読影する限り、被告井上において比較的明瞭に読みとれるものであること、以上のように認めることができ、右認定に反する証拠は存しない。

そして、被告井上の本件陰影の見落しが二、〇〇〇枚以上の連続フイルムをずらしながら拡大鏡で読影の過程に生じていることは前に説明したところであるが、それ以上それがフイルムのずらし間違いに起因するものか、いわゆる陰影の見落としであるかを断定するに足る証拠は存しないけれども、いずれにせよ、右認定した間接写真の診断の限界をそのままあてはめれば、被告井上が読影した二、〇〇〇枚を超えるフイルム中には、原告の本件フイルム以外にも、かなりの見落としがあつた可能性があることになり、当時の集団検診のそのような状況、また、昭和五一年度の実績から類推し、本件の昭和四八年当時も新規結核患者の絶対数が減少の結果、集団フイルムの読影に見落としを生じ易い、いわゆる非効率化の進んだ状況にあつたといえること等、右認定の諸事情を併せ考えると、被告井上の本件読影ミスが不法行為上の過失に該当するとしても、その程度は相当軽いと評価して差支えないと解せられる。

そこで、次に、被告井上の右読影ミスと原告の肺結核症状悪化等との前記因果関係の有無につき判断するに、<証拠略>によれば、原告は、昭和四九年三月自覚症状を契機に肺結核兼糖尿病と診断されるまで、外見上は普通の健康状態で、酒類小売並びに日用雑貨販売業を営み、かつ上峰村村議会議員をしていたことを認めることができ、右発病以降現在まで入院治療を続けていることは前記三認定のとおりである。

しかし、他方、<証拠略>によれば次の事実を認めることができる。

すなわち、原告は、既に昭和四四年四月一九日肺結核症の疑いで訴外久大病院において診察を受け、同月二一日から七月末まで肺結核症、糖尿病、肺化膿症(クレブシエラ肺炎肝菌、シユードモナス緑膿菌等の雑菌による感染)の傷病名で同病院に入院し、退院後も同年八月から昭和四七年四月まで主として肺結核、糖尿病の傷病名で通院治療(昭和四四年一二月まで月二、三回、その後昭和四五年四月から昭和四七年四月まで月一、二回、ただし、昭和四五年以降肺結核の治療はなされていない。)を受けていたこと、糖尿病合併肺結核症の場合、糖尿病の管理治療を早期かつ十分にしながら適切な化学療法をすることにより結核の治療も経過が良好なことが多いといえるのであるが、一般に糖尿病が食餌療法として粗食、肺結核が栄養食、療養態度として前者が運動、後者が安静を主眼とし、二律背反の関係にあること、そのため、肺結核にとり糖尿病の合併は重要な悪化要因、特に死因となり、一方糖尿病にとり肺結核症の合併は糖尿病のコントロールを困難にする重大要因となること、一般に、肺結核治療上の最大の障害として、菌の抗結核剤に対する耐性の問題があるとされているところ、原告の場合既に昭和四九年三月三〇日東佐賀病院における検査の結果により、通常用いられる一〇種類のすべての抗結核剤に対し耐性を備えているという極めて稀な場合であることが明らかになつていること、また、糖尿病合併肺結核症の場合は、抗結核剤に対する耐性ができ、化学療法の効果に期待のもてない難治結核であることが多いため、入院して徹底した糖尿病のコントロールをしながら結核の治療をしなければ、完全な効果を期待できないといい得ること、本件フイルム、昭和四九年三月九日訴外田中医院で撮影したX線(直接)フイルム、同月一九日東佐賀病院で撮影したX線(直接)フイルム、及び同年六月六日同病院で撮影したX線(直接)フイルムを比較すると、原告の右肺上野の陰影にはほとんど変化がなく、その間病巣の悪化が認められないので、約九ヶ月程度化学療法が遅れたとしてもその治療効果自体には特に影響はないこと、病巣の悪化がなければ、自覚症状の有無により必ずしも治療の難易は生じないこと、原告は、平素酒を好み本件発病に至るまで毎日常用し、また、肺結核の早期発覚を畏怖、嫌忌して、むしろ専門医の精密検査を忌避していたふしがあること、以上のように認められ、右認定に反する証拠は存しない。

しかして、右認定の事実と前記三認定の事実を総合して考察すると、被告井上の本件読影上の見落としによる早期発見の遅れと原告の肺結核症の発症、症状悪化、難治化との間に因果関係が存在すると断定するのは困難というべきである。なぜなら、右事実によれば、原告の肺結核症の症状悪化、治癒困難の主たる原因は、本件健康診断当時既に前記のように菌がすべての抗結核剤に対する耐性を得ていたことと、糖尿病の合併並びにクレブシエラ肺炎肝菌等の雑菌感染ないし混合感染にある、すなわちいわゆる難治結核に移行していたことにあると推認するのが相当であるといわざるを得ないからである。したがつて、仮に右健康診断受診時に本件陰影が発見され、直ちに肺結核の治療が開始されたとしても、既に難治結核である以上、原告主張の早期治癒はもはや困難であつたというべく(原告は自覚症状の有無を問題にするのであるが、前記認定のとおり、その間病巣に悪化がなければ自覚症状の有無は治療効果自体に本質的な差異をもたらすものではない。)、前記認定事実だけでは、原告の右因果関係の主張を認めるに十分でなく、他にこれを認めるべき的確な証拠も存しない。

五  してみると、原告の本訴請求はこの点で理由がないことに帰するので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 田中貞和 三宮康信 大原英雄)

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